私が大学院中退して専業主婦になるまで
私は大学院を中退しました。あれだけあこがれ行きたかった大学院を。
なぜそうなってしまったか私の人生を今日は書いていこうと思います。
小学校時代
私は小4の時にいじめにより、精神疾患を発病しました。
厳密にはすぐに発病したわけではありませんが、メンタルはある程度の許容量を超えると壊れます。
最初はなんともなく我慢できてしまうんです。
いうなればバケツにだんだんと穴が開いて行って、気づいた時には穴はふさがらなくなってしまっている状態です。
小学校時代、最初はいじめに屈するなんて弱い人間のすることだと思い、親にもいじめられていることなんて言えるわけもなく、そのまま学校に通い続けていました。
ある日おなかの調子の悪い日にたまたまおならが出てしまいました。
後ろに人がいる恐怖。そしてその不安を感じれば感じるほどガスが溜まります。
ここから私の長いパニック障害と過敏性腸症候群との戦いが始まりました。
そして私は気づけば一人になっていました。
クラス全員が私の敵です。先生もいじめの主犯格をかばい最悪の状態でした。
ある日いじめていた子の親御さんがいじめのノートを見つけたことにより、うちの両親に伝わりました。
そして私が張っていた気はそこで一気に崩れ、学校に行く気力がふっと抜けました。
そして不登校になりました。
中学生時代
いじめは再び続きました。私は正義感が強いせいで、ほかのいじめが始まるのを見過ごせず再び私に標的が戻りました。今考えればとても若く正義感が強い馬鹿です。悪夢でした。
相変わらず不登校気味でしたが、うちの両親は許してくれませんでした。
泣きながら生きたくない私を、車に乗せ無理やり学校に連れていきました。
体調は悪くなる一方で、教室にも行きたくありません。
涙で顔を腫らしたまま学校におろされる毎日でした。
初めてメンタルクリニックに連れていかれたのが中学生の時です。
最初にメンタルクリニックにいきロールシャッハテストや心理テストを受け、下った病名は、過敏性症候群、パニック障害、統合失調症でした。
親は泣いていました。
統合失調症は誤診なんではないかと20台に入るまで思い続けました。
被害妄想が常にありました。おならのにおいが漏れてるんじゃないか、とか。
また悪口言われているとか、本当に言われていたのか妄想なのかもわからない状態でした。
その時期しばらく鬱状態を経験したあと、急にやる気がわいてきたのです!
やっと病気が治ったと思いました。飲んでいた薬SSRIやベンゾ系の不安止めは全く効いていませんでした。
いきなり学校に行くようになり、テスト勉強を過集中でやりきり気づけば生徒会役員になっていました。今思い出せばこれが躁状態の始まりだったと思います。
躁状態は長くは続かず再び学校に行ったりいかなかったり不登校気味になり中学を卒業しました。
高校時代
良くない体調のおかげでランクを落とし入れそうな安全圏の高校に入りまし。
そこから始まったのが、電車に乗ると考えてることが聞こえてしまっている。
私の悪口を知らない人に言われているという妄想です。
そして最愛の祖父の死によって私のメンタルは完全に崩れました。
当時飲んでいた薬を大量に飲み、階段から落ちたり、家のガラスを割ったり相当おかしくなっていました。ODのせいで記憶が曖昧で覚えていない時期です。
そして学校はいける状態ではなく高校留年しましたがうまく通えず、中退し通信制高校へ編入しました。
ここが私の人生の転機でした。
通信制高校では好きな席に座ればよく、後ろを気にすることもないという幸せな環境でした。そして家で課題をこなし、スクーリングに行きたいときに行けばいいというような夢のような状況で、留年していたこともありそれをカバーするように数か月で卒業することができました!
当時は大量の薬を飲んでいましたが、大学浪人とともに断薬を両親に勧められつらい断薬の結果なんとか薬漬けから抜け出せました。
ベンゾ系の離脱症状は本当につらかったです。
断薬は絶対に医師の指導の下しましょう。下手したら廃人になります。
そして断薬とともに一年大学浪人を送りました。
大学時代
大学に入り初めての上京、親元から離れた生活。
ワクワクと不安が入り混じった自由な生活。とても楽しかった。
この時まだ過敏性腸症候群とパニック障害は治ってはいませんでした。
しかし大階段教室などでは、好きな席に座れる講義が多いです。
なので早めに授業に行き最後尾座席をキープすることで安心して授業を受けられました。しかしある時から違和感が。
鬱が続くと思うと、ある時私は生きている人間の中で一番幸福なような気になるのです。
その時の幸福度は計り知れません。そして学校にも行けるようになります。
半年ごとに入れ替わるそんな状態がスパンが短くなってきたのです。
そして解離性障害が深刻になってきました。
記憶がないのです。頻繁に入れ替わるようになり、当時付き合っていた彼にもかなり心配かけました。解離性障害は意識が遠のいていくので今でも予兆で分かります。
院試も躁転していたおかげで、受かることができました。
そんな感じで躁状態のまま大学時代は終わりました。
大学院時代
大学院時代は躁状態から始まり、そして五月ごろに長い長い躁転がおわり混合状態が始まったのです。鬱状態と躁状態が混ざり合い、普通に暮らせる状態ではなかったです。
一日のほとんどをベッドの中で過ごしました。そして限界だと思い再び心療内科の門をたたくことになりました。
結果は統合失調感情障害という診断結果が下り、今の私の病名と一致しています。
ここで長い長いじぶんは何の病気なのかというぐるぐるとした不安がすっきりすることになりました。
しかし久しぶりの投薬で体調は最悪であり、授業に出席できる状態ではありませんでした。いける範囲で何とか抗いましたが、一年通い退学という選択肢をとることになりました。
そして私は大学中退と同時に、お付き合いした彼と結婚しニート兼専業主婦になる道を選びました。できれば卒業したかった。本当に不本意な結果ですが、いまの環境においてくれている旦那さんに感謝です。
人生捨てたもんではないのかもしれません。こんな私ですが、人並みに式を挙げることができました。こんなレアケースかと思いますが。精神障害患者の私とともに歩いてくれる旦那さんを今後も大事にしていこうと思います!